taniyakunのブログ

日々徒然を思いつくまま書いています。

明治元年から150年 マイファミリーヒストリー 5

ジャズ&ジルバ

 
未だ戦争の傷跡が生々しい昭和25年父と母は出会った。
 
2男2女をのこしたまま早くに祖父が亡くなり父は母子家庭で育ち長男である兄は当時の如何なる少年も憧れたであろう少年航空兵に志願し実家である神戸から離れていて父は小学校卒業したかしないかくらいの年から祖母と妹2人の生活を支える為必死に仕事をしたそうである。 
戦後すぐの混沌とした時代でヤクザも横行し喧嘩沙汰はしょっちゅうでヒロポンの蔓延など、かなりヤバイことも在ったみたいです。
 
神戸ではケミカルシューズ産業が興隆したばかりで糸へん金へん景気の朝鮮特需もあり戦後の物不足の中で全ての産業、特に製造業は作れば売れる状況で問屋や小売屋など会社の中にまで来て待ち構え出来た製品を片っ端から競うように買っていったみたいです。
発展途上であった安価なビニール製品も飛ぶように売れ父も皮革裁断の仕事で16,7才の頃には一人前の職人となりやっと家族の生活が安定したみたいです。
 
シューズメーカーと言ってもその当時は産業機械など無く家内工業のような企業ばかりで賃金は全て出来高払いで皮革の裁断は何枚も重ねたビニール生地を型紙に合わせて、裁ち包丁を使って手で切りミシン加工もシンガーミシンの中古を使って全て手作業なので生産高も個人差が有り、男でも女でも職人として腕が良ければかなりの稼ぎがあったようです。
幼心に砥石で裁ち包丁を口笛を吹きながら毎日研いでいた父の姿が記憶にあります。
裁断工として腕の良かった父は給料日には当時の高額紙幣は百円札が最高だったので給料袋が縦に立つほどの厚みがあり、社長より収入は良かったと今では考えられない景気のいい話も聞いた覚えがあります。
 
一方、戦時中看護婦をしていた母は終戦後も広島市内の人類史上始まって以来の悲惨な現場で原爆被災者の救援に従事していたが、娘を心配して広島に来た祖父が強制的に田舎に連れ帰りました。
当時の家庭では父親の意見は絶対でありやむなく田舎で暮らすことになりました。
 
明治気質の厳格だった祖父に子供の頃から反感を持ち 好奇心が人一倍旺盛な母は元より退屈な田舎暮らしが嫌で仕方がなかったらしく家から離れる事ばかり考えたそうです。
石炭運輸で儲けて戦争の徴用で船を国に提供するまで8隻もの船主だった裕福な家庭で少女時代を過ごした母は田舎育ちながら 習い事もお茶.お花.習字など花嫁修業に明け暮れたそうです。
 
祖父は自分自身教育を受けることが出来なくて生涯字も読めなかった人なので1男4女の長女である母と長男である弟には殊の外厳しく教育熱心であった。
 
日々窮屈な思いをしていた母は後年テレビや映画でも大活躍した越路吹雪 新珠美千代 八千草薫 音羽信子等々のスターを排出した全盛期の宝塚歌劇団や映画など華やかな世界に憧れ何とか家から離れて都会に出ることばかり考えていました。
やがて神戸にある叔母の家に行き仕事を探すと祖父を説得し反対を押し切って神戸に出て来たそうです。
 
そんな父母が何処でどう知り合ったか知りませんが古い写真の中にスーツ姿で日本のハーレーダビッドソンと言われた「陸王」に乗ったリーゼントの父と水玉模様の派手なフレアースカートの二人の若い笑顔がありました。
 
当時大流行したダンスホールへ二人で目一杯のオシャレをしてバイクで出かけた事でしょう。
 
「背が高こうてスマートでジルバが上手で若い頃の親父はようモテたもんや~!」
 
母の述懐である。
 
古いアルバムを繰っていると親父は息子の私から見ても、今で言うチョット悪ぶった 「イケメン」でダンスホールなどにいるとかなり女性に人気があったのでしょう。
母は田舎から解放された気分もあり映画から取り入れた最先端のファッションを身につけて都会に出て思いっ切り弾けていたことは間違いないでしょう。
 
神戸にジャズが流れた喧騒の昭和27年8月神戸、そんなこんなで下町の長屋の狭い3畳間で暑い熱い日に私はこの世に生まれて来たのです。
 
 
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