taniyakunのブログ

日々徒然を思いつくまま書いています。

明治元年から150年 マイファミリーヒストリー3

花と龍

明治の男は強かった

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明治30年生まれの祖父は火野葦平の小説「花と龍」
後に何度も映画やドラマになった明治期の沖中仕の物語です。
当時の社会状況は日本近代化の過渡期であり、世界的には植民地支配の帝国主義で弱肉強食の様相を呈していました。
明治新政府脱亜入欧、富国強兵を目指して殖産興業で新しい産業が起こり急速度で時代は変わって行きました。
一方庶民の暮らしは明治27年に起きた日清戦争 による膨大な戦費調達による貧困、外地からもたらされたコレラ等の蔓延により困窮を極めてブラジルや東南アジア各地に出稼ぎに行き農家の次男3男は口減らしと立身出世の為に軍人を目指すのが普通であった。
平和で豊かな生活を享受している私たちがその時代の空気を知ろうと思えば。
「花と竜」あゝ野麦峠」、「路傍の石」など沢山の小説、映画などの作品から 疑似体験するしかありません 。
私が爺さんから聞いた話は正に「花と竜」映画そのもの切った張ったの世界です。今の時代の豊かさと平和が身に染みて本当に有難く思えます 。
「我慢に我慢を重ね、最後には理不尽な奴をバッサリ叩っ斬る」
「オレのヒーローだった高倉健兄いも亡くなって昭和もホンマ遠くなりました」
 
児童福祉法やら労働基準法など無い頃で、幼き祖父は6歳から石炭運搬船に乗せられ「かしき」今で言う飯炊き兼雑用係として石炭運搬船に乗り込み働かされました。
2018年現在でも国によっては未だに子供達に労働  を強いている国が多くあります。
いつの時代も誰でも人権は尊重されるべきで差別や掠取される事なく生きれる事は普遍的な権利ですが貧富の差や感情的な考え方などで未だに差別や暴力が横行し「人類皆兄弟」とはいかないですね?
「平等言うたら男女平等も皆んな中性化になると差別やセクハラは無くなんのかなあ?
平等になって来たから最近はやたらとテレビでオカマが持て囃されてんのかなああ〜。」
「それはそれで平和でええし、勝手にどうぞの世界やけど ...................」
「オカマという言葉が差別用語?」
「こんな事書いてんのも差別でカマハラになんのかな〜?ほかの呼び方知らんもんで、オレは男は男らしく女は女らしくと教育された世代なんで、もしオカマの方がこのブログ読んで不愉快でしたらお許しください!」
 
「ちょっと話が横道にそれました」
 
 爺さんはろくに学校にも行かせてもらえず、「ワシは字が読めんから、紙にお前殺しちゃろかと書いとっても分からんのじゃけん」とよく言って生涯読み書きすることも出来ませんでした。
その代わり耳学問と言うか人の話はよく覚えて旅行に行っても神社仏閣の由来やら各地の伝説などガイドより詳しくてホンマよく何でも知っていましたし、数字にも強くて金の計算も早かったです。
 
「かしき」仕事は毎日3時間位の睡眠で寝る間もなく動き回り船頭やボースン(甲板長)の命令は絶対で、仕事中居眠りでもしようものなら先輩からゲンコが飛んでくるし、足を竹でどつかれるのが日常茶飯事だったみたいです。
それでも船では3度の食事にありつけるだけでも幸せで、たまに陸に上がると子供ですからお菓子を買ってもらった事もあって嬉しかったそうです。
 
その頃、帝国日本は鉄道、建築、道路整備など基幹産業を作るために輸入鋼材を使用していたが政府の財政を圧迫する為、国産鋼材を生産することが急務で石炭産地筑豊に近い八幡に日清戦争で得た戦争賠償金などもありドイツの最新鋭の技術を取り入れた「官営八幡製鉄所」をつくりドイツ人技師指導のもと稼働していた。
日露戦争第二次世界大戦と鉄の需要が急遽に増えて日本各地のあらゆる分野での産業がエネルギー源として石炭を大量に必要とし、未だ鉄道輸送が整備されておらず船舶輸送に頼らざるを得ず海運業は忙しく爺さんの乗っていた船は現在の北九州市若松区から石炭を積込、瀬戸内地方の製塩業者や関西圏の工業地帯へ運搬していたみたいです。
 
時が過ぎ、身長5尺5寸(167センチ)体重27貫(101キロ)昔の基準では大柄な体格の青年に成長し、喧嘩があると根性もあり身体も大きかった爺さんは随分仲間に頼りにされ日本刀を振り回す出入りも度々だったそうです。(船主仲間の談話)
後年、シベリア出兵に21歳の頃に徴兵され軍隊では「体が太かけんワシと元相撲取りの〇〇さんだけ特別に飯を余分に貰ったんじゃ」「露助(ロシア兵をこう呼んでいた)との喧嘩も負けたことはありゃーせん」と自慢し、 仏壇の引き出しにいくつか勲章が有ったところを見るとかなり活躍したようです。 (船主仲間の談話)
 
 
 兵役が終わると海運業に戻り仕事の方も次第に実力をつけ船頭として頭角を現し、24、5歳の頃、仕事で停泊した大崎上島で曾爺さんに男気を見染められ祖母の婿養子に迎えられたようです。 やがて自分の船を持ち船主に成り第二次世界大戦で徴用で国に船を持っていかれるまで最高で大型船8曹も所有してたそうです。
 
好景気が追い風になり本人の頑張りもあって文字の読めない爺さんが異例の出世をし資産を築き上げたのです。
資本主義社会である限りのし上がる為には従業員からの搾取も当然あったでしょうし誰かが犠牲を払ったことは否めないません。
 
「今の資本主義構造が変わらんことには貧富の格差もなくならないし、格差社会は150年前の明治時代より現代社会の方が酷く、明治時代にあった一握りの財閥とその他大勢の貧乏人の社会状況に戻って行くんでしょうね。現在のアメリカやベネズエラを見ても分かるように世界のどこかで同じ事が何度も繰り返されるんやろうな?」
 
私が子供のころ爺さんの船が帰港し自宅に戻った時は港に入る遥か先から婆さん筆頭に迎えの準備 に大騒ぎでした。当時の船は何キロも先迄聞こえるほど大きな音でラジオから田端義夫(バタやん)岡晴夫(オカッパル)松山恵子(お恵ちゃん)など最先端の流行歌が流れていました。
 
「瀬戸内の島々の間をのんびり走る船を見ると、私は今も脳裏にバタやんの別れ船が流れます。
年取ると新しい歌は覚えられないのに何で古い歌は直ぐに出てくるんやろ?」
 
祖母は爺さんと対照的に小柄な人で何時も爺さんの周りをチョロチョロと気を配りながら動き回っていました。
母が子供の頃はまだ日本髪を結っていたらしく、私の子供の時も長い髪を染めていた記憶があります。
根っから優しい人で子供の私に婆さんの小さい頃、飛行機が初めて大崎上島上空を通過すると言うので家族総出で紋付き袴に着替えて観に行った話や、終戦直後進駐軍が上陸してきたときに周りの人は怯えて隠れていたのに曾婆さんは軒下に迄届きそうなくらいの大きな 黒人兵を生まれて初めて見たにも拘わらず平気な顔をして2階の窓から手を伸ばし食糧難で家族が食べる物も無いのに「芋を 食べて行きんさい」って手を伸ばして上げたとか、何時も笑いながら面白おかしく話すのでした。
  
その頃は今のように電話とか無線で船と陸での連絡がとれませんが、婆さんなんか商売柄何キロも離れた小さく見える船の形で「ありゃ~何処の船よ~」と分かったみたいで爺さんが船から伝馬船に乗り換えて桟橋に着く時間まで感で分かってました。
 
「人間は不便な時の方が余程、頭も気も回り本来持っている能力が発揮出来たね!
世の中便利になる程本来の能力が退化するんちゃうか?」
 
爺さんが寄港して自宅に帰ると家族全員ピリピリして超緊張しながら出迎え親戚や近所の人、仕事関係の人がひっきりなしに訪ねて来るはてんやわんやで、やがて刺身や煮物、正月以上の豪華な料理が広間に並んで大宴会が始まるのです。
 
自分は酒を飲まないのに人に振る舞うのは大好きな人できっぷが良く取引先や部下まで多くの人に慕われました。
 
子供からすると躾も厳しく怒ると直ぐに殴られるし、「アキラ!チョットこっち来い!」と名前を呼ばれただけで震えるほど怖い爺さんでしたが、反面とても子煩悩で自分の子供1男4女に加えて甥や姪まで10人以上食べるものから衣服まで生活の面倒をみ、全て実子と分け隔てなく全員で大荷物を抱えて旅行や温泉 寄席など度々連れて行ってました。
 
祖父は酒とタバコは口にしませんでしたが、若い時は気も荒く女遊びと博打は盛んだったようで「8度も嫁を貰ろうたがこの婆さんだきゃあ何をしても最後まで出ていきょらん。しぶとい婆じゃ今はワシより強うなりよった」祖母とよく暇つぶしにパッチン(花札)を打ちながら笑っていました。 
 
「結局9回も結婚したんかい!」(笑)
 
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