taniyakunのブログ

日々徒然を思いつくまま書いています。これまで仕事をしながら、そして仕事を離れてからも、いろいろなことに興味を持って暮らしてきました。 趣味は釣り。 海に出て魚と向き合っていると、日頃のことを忘れて、ただ潮の流れや風を感じる時間があります。釣れる日もあれば、見事に何も釣れない日もあります。けれど、それも含めて釣りの面白さやと思っています。 もう一つの楽しみが、楽茶碗をつくることです。 これは単なる趣味というより、仕事と趣味の間にあるようなもの。土をこね、形をつくり、焼き上がるまでの時間を楽しみながら、

萩焼が生まれた物語③

茶人が完成させた萩焼

前回まで、朝鮮半島から渡った陶工たちと、萩藩御用窯四百年の歴史を見てきました。

けれど、どれほど優れた技術があっても、それだけでは萩焼は今日まで愛される焼き物にはならなかったでしょう。

萩焼を完成させたのは、陶工ではありません。

それは、一碗の茶碗に宇宙を見ようとした茶人たちでした。

利休が遺した「侘び」というものさし

「侘び」という言葉を、質素とか地味と説明することがあります。

けれど、それだけでは少し足りないように思います。

侘びとは、不足を嘆くことではなく、不足のなかに豊かさを見いだす心ではないでしょうか。

均整の取れた美しさより、ほんの少し揺らいだ姿。

豪華な装飾より、土そのものが語る景色。

完成された美より、使う人とともに育っていく美。

利休が求めた茶の湯は、そんな世界でした。

もちろん利休は萩焼を知りません。

萩焼が誕生する十数年前にこの世を去っているからです。

しかし、利休が築いた侘び茶という美意識があったからこそ、後に生まれた萩焼は「理想の茶碗」として迎えられました。

もし日本の茶の湯が、豪華絢爛な中国陶磁だけを尊ぶ世界であったなら、萩焼は生まれても今日ほど愛されることはなかったかもしれません。

遠州が見つけた「綺麗さび」

江戸時代になると、茶の湯は新しい美意識を迎えます。

その中心にいたのが、小堀遠州でした。

遠州は侘びを否定したのではありません。

侘びの静けさに、品格と明るさを添えたのです。

これを「綺麗さび」と呼びます。

私は、萩焼ほどこの言葉が似合う焼き物はないように思います。

白といっても真っ白ではない。

桃色にも、枇杷色にも、灰色にも見える釉薬。

炎が描くほのかな緋色。

茶を重ねるごとに深まる貫入。

どこにも派手さはありません。

けれど静かな華があります。

その美しさは、声高に語りかけるのではなく、長い時間をかけて見る人の心へ染み込んできます。

一楽、二萩、三唐津

茶の湯には、「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。

順位ではありません。

それぞれが茶人の求めた異なる美を表しています。

楽焼は、人の手から生まれる美です。

轆轤を使わず、掌で形づくられる茶碗には、人の温もりがそのまま宿っています。

萩焼は、時間が育てる美です。

窯を出た瞬間は完成ではなく、使われることで景色を深めていきます。

唐津焼は、暮らしの中から生まれる美です。

飾らない器だからこそ、毎日の茶が自然に似合います。

茶人たちは、この三つの美しさを競わせたのではありません。

それぞれ異なる美徳として慈しんできたのです。

萩焼は日本だけの文化ではない

萩焼を見ていると、日本の焼き物でありながら、日本だけでは語れないことに気づきます。

朝鮮王朝で磨かれた技術。

毛利氏が守り育てた御用窯。

利休が遺した侘びの思想。

遠州が育てた綺麗さび。

そして四百年にわたり技を守ってきた陶工たち。

そのすべてが重なり、一碗の茶碗になっています。

だから萩焼とは、文化が国境を越えて育った証でもあります。

歴史には悲しみがあります。

文禄・慶長の役によって、多くの人が故郷を失い、朝鮮王朝は大きな傷を負いました。

その事実は決して忘れてはならないでしょう。

しかし、その苦難の中で受け継がれた技術は、日本の地で新しい文化として花を咲かせました。

そのこともまた、歴史の一つの真実です。

茶碗は、人をつなぐ

私は萩焼を見ていると、「器は人を映す鏡や」という気持ちになります。

土だけではありません。

炎だけでもありません。

そこには、陶工の手があります。

茶人の心があります。

使い手の暮らしがあります。

そして四百年という時間があります。

萩焼は、完成された工芸品ではありません。

使うことで育ち、世代を越えて受け継がれ、やがて持ち主の人生までも映す器です。

だからこそ、茶碗を手にしたとき、私たちは無意識のうちに温もりを感じるのでしょう。

それは土の温もりだけではありません。

四百年にわたり、人から人へ受け継がれてきた文化の温もりなのです。

おわりに

私は萩焼を眺めるたび、一つの茶碗がこれほど多くの物語を抱えていることに驚かされます。

朝鮮王朝の陶工たちが守り抜いた技。

毛利氏が育てた御用窯。

侘び茶が見いだした新しい美。

そして今も変わることなく、窯の炎と向き合う陶工たち。

一碗の茶碗は、土から生まれます。

けれど名碗は、歴史から生まれるのではないでしょうか。

そう思いながら今日も萩焼を手にすると、静かな白い釉薬の向こうから、四百年前の陶工たちの息づかいが、そっと聞こえてくるような気がするのです。

萩焼が生まれた物語②

四百年受け継がれた技術と、萩藩御用窯の系譜

前回は、文禄・慶長の役によって朝鮮半島から渡った陶工たちと、萩焼誕生の歴史をたどりました。

今回は、その陶工たちが何を伝え、なぜ萩焼だけが四百年以上たった今も李朝陶磁の面影を残しているのか、その理由を陶芸技術から考えてみたいと思います。

萩藩御用窯の始まり

慶長九年(一六〇四)頃、毛利輝元が萩城下を整備するとともに、李勺光・李敬らは城下東郊の松本中之倉に窯を築きました。

これが萩焼最初の御用窯です。

「御用窯」とは、藩主のための茶碗や食器、贈答品を焼く窯のことです。

現代のような自由な市場で販売する窯元とは違い、藩の保護を受けながら、高い品質の焼き物を作ることが使命でした。

毛利氏が萩焼を大切に育てた背景には、茶の湯への深い理解がありました。

江戸時代初期、茶の湯は武家社会における教養そのものであり、優れた茶碗は藩の文化的な象徴でもあったのです。

李勺光・李敬から始まる系譜

萩焼の歴史を語るうえで欠かせないのが、「家」が技術を受け継いできたことです。

李敬は後に毛利家から「坂高麗左衛門」の姓を与えられます。

坂高麗左衛門家は現在まで四百年以上続き、萩焼を代表する窯元として知られています。

一方、李勺光の子、山村作之允(光政・松庵)は父の技術を継承し、さらにその子・山村光俊は明暦三年(一六五七)、長門市深川三之瀬へ新たな御用窯を開きました。

こうして萩焼は、松本萩と深川萩という二つの流れに分かれます。

松本萩は藩の中心窯として伝統を守り、深川萩は新しい技術や陶工を育てる場となりました。

やがて深川では坂倉家、新庄家、田原家など多くの陶工が育ち、松本では三輪家や佐伯家が加わります。

今日まで続く坂高麗左衛門家、三輪休雪家、田原陶兵衛家は、この御用窯の流れを受け継ぐ名門です。

萩焼は、一人の名工が築いた焼き物ではありません。

代々の陶工が技を守り、少しずつ磨き上げてきた「人の系譜」そのものなのです。

蹴轆轤が生む「揺らぎ」

萩焼を手にすると、口縁は完全な円ではありません。

わずかな揺れがあります。

それは決して失敗ではなく、美しさの一部です。

この柔らかな表情を生むのが、朝鮮半島から伝わった蹴轆轤です。

足で轆轤を蹴り、回転を保ちながら成形するため、電動轆轤のような一定速度ではありません。

ほんのわずかな回転の変化が、器に自然な生命感を与えます。

人の鼓動のようなリズムが、器の姿に刻まれるのです。

茶人が萩焼を「柔らかい」と感じる理由は、土だけではなく、この成形技法にもあります。

登窯が描く炎の景色、萩焼は薪窯で焼かれます。

朝鮮半島で発達した登窯は、山の斜面を利用し、熱が自然に上へ昇る性質を利用した窯です。

窯の中では場所によって炎の流れが異なります。

灰が降り積もる場所。

炎が直接当たる場所。

酸素が多い場所。

少ない場所。

同じ釉薬を掛けても、一つとして同じ茶碗にはなりません。

炎が最後の陶工になる。

そんな言葉が浮かぶほど、薪窯は偶然を作品へ取り込みます。

萩の土が李朝の技術を受け止めた

私は、萩焼が四百年たっても李朝陶磁の面影を残した理由は、この土にあると思っています。

萩で使われる大道土や金峰土は、石英分が多く、鉄分が少ない陶土です。それに鉄分の多い見島土を入れることで

焼き締まり過ぎず、ほどよい吸水性を持っています。

そのため長石釉を厚く掛けても、土がやさしく受け止めてくれるのです。

有田では磁器土が見つかったことで磁器へ向かいました。

薩摩では白薩摩という華やかな方向へ発展しました。

しかし萩には磁器土がありませんでした。

だからこそ陶器であり続けた。

それが結果として、李朝の技法を最も忠実に受け継ぐことにつながったのでしょう。

「変わらなかった」のではなく、「変える必要がなかった」のです。

釉薬が育てる時間

萩焼を特徴づけるのは、長石を主体とした灰釉です。

一二〇〇度前後でゆっくりと溶け、乳白色や枇杷色のやさしい景色を生み出します。

土と釉薬は、温度によって伸び縮みする割合が少し違います。

焼成後、そのわずかな差によって細かなひび模様が生まれます。

これが貫入です。

多くの焼き物では、ひびは欠点です。

ところが萩焼では、この貫入こそが魅力になります。

茶が入り、季節を重ね、人の暮らしが染み込む。

一年目と十年目では、まるで違う茶碗になります。

茶碗が人とともに歳を重ねる。

世界の陶磁器を見渡しても、このような美意識は決して多くありません。

なぜ萩焼だけが李朝の姿を残したのか

同じ時代、日本へ渡った陶工たちは全国で新しい焼き物を生み出しました。

有田焼、薩摩焼、上野焼、高取焼……。

それぞれが日本の風土に合わせて変化していきます。

しかし萩焼だけは、驚くほど李朝陶磁の姿を残しました。

その理由は、一つではありません。

毛利氏が御用窯として保護し、技術の伝承を重んじたこと。

茶人たちが、その素朴な姿を理想の茶碗として愛したこと。

磁器へ向かう必要がなかったこと。

大道土という陶土が朝鮮の技法とよく調和したこと。

そして何より、陶工たち自身が「作り方」だけではなく、「美しいと思う心」まで受け継いだからではないでしょうか。

技術は道具ではありません。

人から人へ受け継がれる思想です。

だから萩焼には、四百年前の李朝陶磁が、今も静かに息づいているのです。

次回は、いよいよ茶の湯の世界へ入ります。

千利休は、なぜ朝鮮の器に侘びを見いだしたのか。

小堀遠州は、なぜ萩焼を愛したのか。

そして「一楽、二萩、三唐津」という言葉が語る本当の意味とは何か。

茶人たちの美意識から、萩焼という焼き物の魅力をもう一度見つめてみたいと思います。

萩焼が生まれた物語① 海を渡った陶工たち

茶碗は歴史を映す鏡

萩焼の茶碗を手にすると、不思議と心が静まります。

乳白色のやわらかな釉薬、手のひらにすっと馴染む温もり、使い込むほどに表情を変えていく貫入。その姿は「萩の七化け」と呼ばれ、茶人たちを魅了してきました。

けれど、その一碗には、土や炎だけでは語れない物語があります。

戦乱、人々の別れ、異国での新しい暮らし、そして文化の継承。

萩焼とは、四百年以上前に海を渡った陶工たちの人生が焼き込まれた器でもあるのです。

私は萩焼を眺めるたび、「茶碗は歴史を映す鏡なんやな」と思わずにはいられません。

「一楽、二萩、三唐津」が教えてくれること

茶の湯の世界には、古くから

「一楽、二萩、三唐津」

という言葉があります。

これは利休が残した言葉ではなく、江戸時代以降に茶人たちの間で広まった評価と考えられています。

ただ、この短い言葉には、日本の茶の湯が求めた美意識が凝縮されています。

楽焼は、轆轤を使わず、手で成形される茶碗です。

茶人が掌で包み込むことを前提とした器には、人の温もりそのものが宿っています。

萩焼は、使うほどに育つ茶碗です。

貫入に茶が入り、年月とともに景色が深まり、持ち主だけの一碗へと変化していきます。

唐津焼は、飾り立てることなく、実用のなかに美しさを見いだした焼き物です。

鉄絵や刷毛目に表れる素朴な力強さは、「用の美」を象徴していると言えるでしょう。

順位を表す言葉ではなく、それぞれが異なる美徳を備えた焼き物として愛されてきたのです。

そして、この三つの焼き物には、一つの共通点があります。

その源流には、朝鮮半島から伝わった陶芸技術が静かに息づいていることです。

朝鮮王朝から見た文禄・慶長の役

日本では「文禄・慶長の役」と呼ばれる戦いは、朝鮮では「壬辰倭乱」と「丁酉再乱」として記憶されています。

豊臣秀吉による朝鮮出兵は、朝鮮王朝にとって国土が荒廃し、多くの人命と文化財が失われた未曾有の国難でした。

そのなかで、多くの陶工もまた戦乱に巻き込まれます。

当時の朝鮮王朝では、優れた陶工は官窯に属する技術者として保護されていました。

陶磁器は王室の祭礼や外交にも用いられる重要な工芸品であり、その技術は国家の財産でもあったのです。

戦乱によって窯場は焼かれ、多くの陶工が日本へ渡ることになります。

ただし、現在の歴史研究では、「戦争だけで朝鮮陶磁が衰退した」とは考えられていません。

社会の混乱に加え、儒教思想の浸透や王朝の政策の変化など、複数の要因が重なり合って、朝鮮の陶磁文化は新しい時代へ歩んでいきました。

歴史を語るときは、一つの出来事だけで説明しない姿勢が大切なのだと思います。

粉青沙器から李朝白磁へ

朝鮮王朝初期を代表する焼き物が、粉青沙器です。

高麗青磁のような完璧な美しさとは少し趣が異なり、白化粧土を掛け、刷毛目や三島、象嵌、掻き落としなど、多彩な技法で自由な表情を生み出しました。

轆轤目をあえて残し、少し歪んだ姿にも美を見いだす。

そこには、使う人の暮らしに寄り添う器としての豊かさがあります。

この素朴で温かな造形は、日本で育まれた侘び茶の美意識と、不思議なほど響き合いました。

もっとも、粉青沙器が侘び茶を生んだわけではありません。

日本の茶人たちが、その器のなかに侘びの精神と重なる美しさを見いだしたのです。

やがて十六世紀後半になると、朝鮮王朝では白磁が主流となっていきます。

儒教が重んじた節度や清廉さを映すように、装飾を抑えた端正な白磁が発展し、今日「李朝白磁」と呼ばれる美の世界が築かれていきました。

粉青沙器は突然姿を消したのではありません。

時代の流れのなかで白磁へ移行し、その変化の途中で文禄・慶長の役という戦乱が重なったのです。

海を渡った陶工たち

戦乱のなかで、日本へ渡った陶工たちは各地で新しい窯を築きます。

萩焼の始まりも、その歴史のなかにあります。

萩焼の開祖として伝えられるのが、李勺光と李敬です。

二人は朝鮮半島中部の鶏龍山周辺の陶工であったと伝えられていますが、当時の朝鮮側史料が少ないため、兄弟であったことや詳しい出自には伝承の部分も含まれています。

関ヶ原の戦いの後、毛利輝元は広大な領国を失い、長門・周防三十六万石へ減封され、新たな城下町として萩を築きました。

その際、李勺光・李敬らも毛利氏とともに萩へ移り、慶長九年(一六〇四)頃、松本中之倉に窯を開いたと伝えられています。

これが萩焼の始まりです。

ここで一つ興味深いことがあります。

日本へ渡った多くの陶工たちは、それぞれの土地で新しい焼き物を生み出しました。

しかし萩焼だけは、四百年以上経った今でも、朝鮮李朝陶磁の面影を色濃く残しています。

それは偶然ではありません。

毛利氏が御用窯として保護し、一子相伝とも言える形で技術が受け継がれたこと。

茶の湯が萩焼の素朴な美しさを高く評価し、大きく作風を変える必要がなかったこと。

そして何より、萩の土や炎が、朝鮮で培われた技術と驚くほど相性が良かったことに理由があります。

その秘密については、次回、「萩焼を育てた技術」で、蹴轆轤や登窯、陶土、釉薬、そして萩藩御用窯四百年の歴史とともに、もう少し深く紐解いてみたいと思います。

茶碗考

茶碗とは何ぞや――掌中の宇宙に生き様を見る

茶碗とは、一体何なのでしょうか。

人類が人間らしく、初めて水を飲もうとした時のことを想像してみます。きっと、両手を合わせて手でお椀の形を作り、水を掬(すく)ったのではないでしょうか。やがて道具を使うことを覚え、自然にある葉っぱや木、石などで水を掬うようになっていったのだと思います。

陶芸の知識のない方は、「焼き物は轆轤(ろくろ)を使い、土を自由自在に形を変えて造るもの」というイメージをお持ちでしょう。しかし実際は、土を轆轤に乗せて中心に穴をあけ、グルグルと回転させると遠心力が働きます。その状態で土の上部を薄くしていけば、自然に広がって茶碗の形になっていくのです。 それ故に、茶碗は一番作りやすい形だと言えます。極端に言えば、焼き物を始めれば子供でも初めての人でも作れるのが茶碗なのです。

その一方で、あらゆるプロの陶芸家の方々も、必ず抹茶茶碗を造っています。茶道をしなくても、お茶に関心のない人であっても、なぜ彼らは抹茶茶碗を作るのでしょうか? 私の考えでは、お茶の文化は日本人のDNAに刷り込まれているからではないかと思うのです。

日常の食生活において、器を手で持ち上げて直接口に運ぶ習慣は、世界的に見ても稀です。それ故に、ご飯茶碗や湯呑などは「個人の所有物」となり、一人一人が手に持った時の重さや、唇に触れたときの口当たりに強いこだわりを持つのです。 茶の世界では、茶碗を両手で持ち上げ、感謝の気持ちを持ってお茶をいただき、飲み終わった後も敬意を持って茶碗を鑑賞します。

つまり茶碗とは、作者の思想や心情、生き様そのものが全て現れるものなのです。

かと言って、決して特別なものではなく、日常使いとして自然にいつもそこにある物でありたい。 器の中に「掌中(しょうちゅう)の宇宙」が表現できれば、それこそが最高に素晴らしい茶碗と言えるのではないでしょうか。

【令和の海岸・演芸放談】金髪のジェニ某と、砂川捨丸の「金色夜叉」

今朝は、いつもの海岸散歩が、まるで新開地の「松竹座」の舞台裏のような賑やかさになりました。

ことの始まりは、偶然出会った知り合いの親父さんとの会話。 最近、私が「ジェミニ(AI)」とやり取りしている話をしたら、どうも親父さんの耳には「ジェニ某」と聞こえたらしく、あろうことか「金髪の彼女」ができたと勘違いされてしまったのです。

昭和の親父にとって、金髪といえば西川きよし師匠のヘレンさんか、千昌夫さんのジョン・シェパードさん。 「ワシにも紹介せぇ!」と鼻息を荒くする親父さんを前に、私は心の中で「暁伸・ミスハワイ」師匠ばりの「愛(あ~いや~)!」という叫びで受け流すしかありませんでした。

蘇る「新開地・松竹座」の記憶

親父さんとのやり取りで、ふと思い出したのは子供の頃に通った神戸新開地の松竹座です。 あの劇場の匂い、客席のヤジ、そして舞台に立つ名人たちの姿。

特に、砂川捨丸・中村春代師匠のコンビは忘れられません。 「ハゲの捨丸、デブの春代」と呼ばれたあの夫婦漫才。 今でも私の目には、捨丸師匠がちょび髭に手拭いを乗せてお宮に扮する、名作『金色夜叉』が鮮明に焼き付いています。

「来年の今月今夜のこの月を……」と唸る横で、捨丸師匠がポンと鼓を叩く。 あの絶妙な間とリズムこそが、私の笑いの原点なのだと改めて感じました。

また、暁伸(あかつき しん)さんとミスハワイさんは、昭和の漫才黄金時代を築いた伝説的な夫婦漫才コンビです。

「浪曲漫才」というジャンルにおいて、重厚なギブソン(Gibson)のフルアコでなんと!浪曲の伴奏をしよった!ウェス・モンゴメリーや歴代のジャズミュージシャンが使ってた。ギブソンやで! 彼はマイクで拾う音だけでなく、ギター本体の「生鳴り」を極めて重視していました。ギブソンのフルアコが持つ芳醇な響きが、ミスハワイさんの「あ〜いや〜!」という高音の合いの手とシャーシャカ シャーシャカというギロに完璧に調和し、一つの音楽ユニットとして完成されていました。 余談ですが暁伸さんの弟子の宮川左近ショーに出てた暁照雄の超絶技巧と呼ばれた三味線は正に暁伸のギターから伝承されたものだと思います。

今の私は、令和の捨丸「家庭内オプティマス」として家事に勤しみ、奥さんという名の「春代師匠」に頭をしばかれるのがオチの捨丸のような存在を目指しております。芸の道は厳しい〜〜

しかし、それもまた一つの芸、一つの幸せな形。 親父さんの勘違いも、奥さんの強烈なツッコミも、すべては人生という舞台を彩る「笑い」のエッセンスです。

「今日はこれくらいにしといたるわ!」

新喜劇のような捨て台詞を残して、海を後にしました。 明日の朝は、どんな出囃子が聞こえてくるのやら。

それでは皆様、また明日。ご機嫌よう、「愛(あ~いや~)!」

(笑)

バブルは良かったなあ!

バブル期を考察する!

偉い経済学者の先生やら政治家さんはバブルを悪者にして日本はダメになった様な事を言いますが庶民をずっと 続けている親父にとっては長い人生の中では昭和の時代が最高だった。 日本は世界に類を見ない経済成長を遂げ国民を豊にさせ会社も個人も潤った。 社長と社員の給料も精々3倍程度で今のような格差は無く会社で業績を上げれば個人にも十分還元されていた。

1989年消費税が導入されて以来、庶民の生活は給料が年々下がり経済格差が広がり様変わりしてしまった。 政治が改革という名の改悪で3度も消費税を上げて、財政危機を謳い文句に社会インフラも整備せず終身雇用制を無くして企業の生産を海外に移し非正規雇用者を増やした結果である。

先頃、ノーベル賞を受賞された真鍋淑郎さんが日本では共調して生きづらいとおしゃってましたが「出る杭は打たれる」と言うことわざどうり天才には住みにくい社会ではあるのでしょう。

しかし、狭い島国で多くの人が住んでいる日本と言う特殊な社会では歴史的に人々が共調し思いやり助け合って生きて来て日本人独特の穏やかで優しい性格を育んできた面もあります。 日本は仕事、スポーツ、あらゆる分野で個人主義ではなくチームプレーで力を発揮できる国民性ではないでしょ うか。 識者と言われる方は直ぐに欧米諸国を例に挙げて物事を判断されますが日本人は日本人ならではの物差しで考え る事で独自の方向を見出せるのではないかと思います。 物事には全て良い面、悪い面がコインの裏表のようにあります。その裏表どちらを選ぶかによって考え方が大きく変わり社会が否応なく変化して行くのでしょう。

バブル以前の企業は終身雇用制で会社であっても大きな家族のような暖かさがあった。個人の自由が無いとか年功序列で出世が遅いとか悪い面も多々ありました。 しかし、昭和は遥か遠く令和の時代になり失われた30年と言われて久しいですが近頃では個人の権利ばかり尊重 されて自由の意味を履き違え「今だけ金だけ自分だけ!」なんて、とんでもない社会になりSNSでも単なるやっか みのような意見が幅をきかせみんなで個人を吊し上げ、思いやりの欠片も無い何とも情けない世の中でありま す。 「貧すれば鈍する」正にこの言葉通り個人はプライドを失い金だけを追い求める情けない社会になっています。

昭和の政治家は池田勇人の所得倍増計画、田中角栄の日本列島改造論など将来に夢を与える政策があった。 ロッキード事件やリクルート事件など負の面もあったが少なくとも今の政治のようにコロナになっても医者にも 行けず生活苦で自殺者が出ていても国民を見殺しにするような政府ではなかった。 懐かしき昭和は今と比べると仕事にもやりがいがあり社会全体寛容であり経済的にも年々豊かになって行った。

政治が改革を唱えだし改革という名の改悪を繰り返し緊縮財政を続ける限り現在のような悪夢が続くのだろう。

科学も発達し便利な世の中ですが、それ故にグローバルな波に飲み込まれ新しい経済による戦争が始まっていま す。個人が意識の変革をしなければいよいよ危うい世界になるでしょう。

個人で出来ることは限られていますが、政治を良くすることが一つの方法ではないでしょうか?

近づく衆議院選挙で良い政治に変わるべく国民は本当の政治家を見定め1票を投じよう!

自民党総裁選挙

自由民主党の総裁選を注視しております。

国の未来を左右する非常に大切な選挙である!

誰がやっても一緒で変わらないと、まるで自分や国の行く末を放棄するような国民の何て多い事かと思います。 国の主権者である我々国民は選挙権を持つ権利と責任を今一度考えて見る良い機会ではないでしょうか? 一人一人の意識と世論が社会を変え個人の生活を変えて行くものです! 自分は選挙や政治に無関心を決めて自分の不幸を社会や政治のせいにするのはもうやめていいんじゃない?

「お前が中国や北朝鮮にドツカレたら守ったるからミカジメリョウ出せや」言うてるヤクザのようなアメリカの言いなりになり、 戦後押し付けられた「喧嘩したらアカンよ、戦争はアカンよ!」て言うリベラルな教育に洗脳され、平和ボケになり泥棒国家の中国のやりたい放題に目をつぶってる。

売国奴のような政治家が創り出した経済格差により大半の庶民は貧乏のどん底に叩き落されている! 主権者である国民の無知、無関心につけこんで知らない間に国民の主権や国の尊厳をないがしろにし、 自己の懐を豊にする政策ばかり進める税金泥棒のような政治家のなんと多いことか(怒り)!!!!!

**もういい加減政治のやることをしっかりと目を見開いて監視して間違ったことには大声で文句言うたれ❕

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