taniyakunのブログ

日々徒然を思いつくまま書いています。

明治元年から150年 マイファミリーヒストリー4

時代の流れ

石炭から石油へのエネルギー転換

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爺さんの晩年は40代で船を降り最後の持ち船を売却し北九州でアパートを建て悠々自適の暮らしでしたが人生の航海も全て順風満帆だった訳ではなく航海中も多くの荒波を乗り越えて何度も死を覚悟し命懸けで波乱万丈の人生でした。
 
祖父と祖母の間には1男4女の子供が有り唯一の息子であった長男に跡を継がせるべく船の免許を取らせたり、長女の婿養子である私の父に船の仕事を教えたりしたのですが余りの厳しい性格故に続かなかったようです。
 
爺さんにしろ親父にしろ「うちの家系は代々養子で続いてまんなあ......」
 
1男4女の中で育った長男の叔父は性格が大人しく優しかったので船乗り稼業には向かず、気の弱さゆえに厳しい父親に反発したようです。
残された写真など見ると戦後流行ったマドロスを気取ってましたが精神的に弱かったのか酒とギャンブルに溺れる羽目になり、日本中のボートレースに通い嫁も子供も捨て実家との連絡も途絶え最後には身の破滅を招き行方不明になりました。
 
「私の母を筆頭に娘は爺さんの血を引いて男勝りで気の強い女ばかりの中で気弱な叔父は育ちました。可哀想な環境だったんでしょう。同情します(´;ω;`)ウゥゥ」
 
私の父は元々神戸生まれで若い時から靴の職人をしていました。
祖父の勧めで母に実家に転居し何年か船にものっていましたが船の仕事には馴染まなかったみたいで若さゆえ自分で事業を起こそうと野心的であったと思われます。
既に社会状況は石炭の時代から石油の時代になり各地の炭鉱も次から次へと閉鎖されていきました。
目先のきいた父親は斜陽になった石炭運輸の時代ではないと思い船舶輸送の跡を継ぐことをしなかったみたいです。
 
それでも爺さんは婿養子である私の父には期待する気持ちが強かったみたいで、父が大崎上島で靴のメーカーを立ち上げた際には家も畑も全て銀行の担保に入れ支援しました。
結局は父も家族、親戚を巻き込み会社を必死で運営しましたが結果的に会社は倒産して爺さんの期待に応える事が出来ませんでした。
 
親父が事業で失敗した後、祖父母は九州の若松に帰り暮らしていました。私は遠く神戸に住んでいたので祖父母とは長い間会うことがありませんでした。
私は中学校2年生で広島市内、3年で神戸の中学と転校しました。父も再起をかけて新しい仕事を次々とやっていましたが上手くいかなかったのか結局神戸に帰り元の靴屋に戻りました。
親戚一同散逸して各々住まいも仕事も変わり新しい生活に入っていったようです。
 
オレが小学生の頃に「アキラが自動車免許が取れる年になったら車を買うてやるけん日本中旅行に連れて行ってくれえ」とよく言ってましたが私自身学校を卒業し早くから仕事をしたものですから北九州に住んでいた祖父母と何年も会わないうちに88歳の米寿祝いを過ぎて爺さんは喉頭癌に侵されました。
 
昔は人から恐れられるほどの威圧感が有り、あれだけ大きかった身体も痩せ細り握った手も小さくなり、色も真っ黒になってしまい、徐々に動くことも食べる事も覚束なく為り、母や叔母たちも「家族全員で会えるのは多分最後だろう」と爺さんが好きで昔良く連れて行ってくれた淡路島の旅館に久々に家族全員集まることになり、私の運転する車に爺さんを乗せ泊まり掛けで明石鯛のフルコースを食べに行きました。
 
「アキラにご馳走されるようになるとは思わんじゃったの~」と皮肉交じりで冗談を言って、自から笑いながら周囲を笑わせた顔が私にとって最後の思い出で唯一の慰めでした。
 
祖父の人生は日本の歴史と共に大きなうねりの中で船を出し石炭産業の黎明期から終焉まで見届けるように時代とともに駆け抜けて行きした。
 
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